流派紹介

 

私どもが学んでおります宗徧流(そうへんりゅう)の茶道は、千利休の孫の千宗旦の弟子である山田宗徧が江戸時代初期に開かれたものでございます。ここでは都合上、流祖宗徧から五世宗俊までの歴史は割愛させて頂き六世宗彌から説明させて頂きます。

宗彌は故あって主家小笠原家を去りましたので、いったん宗徧の血統でない吉田宗意の第2子宗學が継承し、宗學没後はその妻が宗徧流不審庵を名乗りました。ちなみにこの吉田宗意自身も「時習軒」と号して宗徧流の茶をたしなんでいたのですが、宗意の弟子筋から「時習軒」「四方庵」などと号する人があらわれ、同じ宗徧流のなかでも少しずつ違った流派が生じました。

宗徧血統であります宗彌が宗斐(脇坂家淡路守安斐候)の茶頭となり、後宗斐に全てを託しました。その後宗彌の孫、宗貞、その弟宗理(いずれも当時静岡県令であった関口隆吉氏の子)が八世、九世を継ぎました。

そして、十世宗知はその高弟であった岩田宗榮に宗徧流を託しました。本来ですと宗徧血統の関口家へ家元をお返しするのが筋ですが、当時関口家では家元を継承するお気持ちがなかったので、十世家元となった宗知は、当時華道東池坊家元でもあり、茶道では直接宗知の指導を受けていた岩田宗榮に託したのでございます。そして、宗榮は、宗知時代、すでに呼称されておりました宗徧流利休正流という流派名を立て、宗徧流の茶道の真髄を伝えるべく家元としての重責を担うことになりました。

その後、昭和32年に十三世宋仙は宗徧流発展のため、宗徧流不審庵会に合流しましたが、故あって昭和53年9月9日に宗徧流利休正伝派として再興し、昭和56年4月1日をもって「宗徧流正伝庵」に統一を図りました。これは円覚寺故朝日奈宗源管長の庵の額「正伝」が贈られましたことによります。

「茶道宗徧流正伝庵手引書基礎編1」より抜粋、一部改編」